「わたし」の復権

構造主義からもポスト構造主義から抜け落ちるもの - finalventの日記

構造主義でもポスト構造主義でも、「私」が不在なのに、Google主義では、べたに私が復権してくる。

例えばプロフィール欄の「最近言及したISBN/ASIN」は,自分であとから見返して面白いと思うことが多い.あ,自分はこんなことに興味をもってるのか,と面白く思う.言及した単語とか,リンクしたページとか,商品とかの一覧表は,ネットの上の「私」の核だと思う.この一覧表を作る過程は,快楽追求の過程でもあったのだと思う.

相互人格的な絶対主義(参考)では,眼の前の人物の自分に対する敵意の有無を,その人物の心理とか思想ではなく,武器携行の有無などモノで測っていた.相互人格的なふるまいをしようとすると,相手に付随するモノに焦点があわせられる.一方,他人をマスとしてとらえて功利主義的にふるまおうとすると,道徳的価値観とか相手の内面へと焦点があわせられるようだ.Googleによる,自動的かつ相互人格的な交流網生成技術は,こういう意味で成功しうる気がする.不思議だ.

わたしの核を担う「一覧表」を自分の手で作り上げられる点は,どうなんだろう.例えば,2007年の4月30日にこのブログを書いてるリアルな私を含む情報のうち,私以外の人物や工学的センサーによって入力された情報は,ネットの上には(おそらく)存在しない.そのおかげで,自分の能力の範囲内(この拘束は大きい)で,テキトーな「私」を演じることが容易だ.テキトーなフカシが他の存在との矛盾を惹起しにくい.矛盾を惹起しないのは,匿名か否かというより,このブログが泡沫ブログで他の情報との関係が希薄であることに依る.ネット上での情報間の論理的無矛盾性と,リアルな世界での物理法則などからみた無矛盾性と,ネット−リアル間のセンシングの観点からみた無矛盾性とが強く関係していて,その無矛盾性の保証の強さで状況が変化しそうな希ガス